和風について考える
(仮称)瑞浪の家127

和風について考える

 

和風という言葉。
これは、日本人であれば各々そのイメージを持っていると思うのですが、深く考えてみるとなかなかつかみ所のない、難しい言葉のように思います。

例えば寺院建築について考えてみます。 聖徳太子の時代に飛鳥の地に法隆寺が建立されたころは、法隆寺は最先端のモダンでかっこいい仏教建築であったと思います。 そのころの日本人にとって、法隆寺はあくまで外来建築であり、和風だとは誰も思わなかったと思います。 その後、法隆寺のような飛鳥建築や薬師寺のような白鳳伽藍などが日本に定着したあと、鎌倉時代に中国から大仏様(だいぶつよう)や禅宗様(ぜんしゅうよう)といった、それらとは異なる様式の仏教建築が伝来されると、大仏様や禅宗様が外国のモダン建築で、それ以前の日本に定着した仏教建築の様式を和様(わよう)として、和様が今で言う「和風」として当時の日本人に解釈されたのでしょう。 大仏様や禅宗様に飲み込まれないように和様の仏教建築を残そうという動きというか力が働いて、それまでなかった和様という言葉や概念が生まれたようです。

次の例として、日本の住宅建築について考えてみます。 現代人が想像する和風住宅はサザエさん的住宅であったり、鬼瓦がのった屋根や欄間などがコテコテとデザインされた昭和的住宅を想像される方が多いのではないでしょうか。 ところが、江戸時代以前は瓦が載った住宅は少数派で、庶民の家は板葺きや茅葺きが多く、江戸時代には竪穴式住居も多数残っていたそうです。 したがって、江戸時代の日本人にとっては、地域によっては竪穴式住居こそが和風だ!と思う日本人もいたかもしれません。 つまり、現代の日本人と江戸時代の日本人の和風住宅の概念はかなり異なるものとなります。 まして、それ以前、例えば平安時代の日本人の和風住宅の概念は、さらに今日と大きく異なることでしょう。 その時代その時代に、新しいもの(モダン)を取り入れようとする人もいれば、現在や過去を維持しよう(その時代におけるいわゆる「和風」を守ろう)とする人がいて、新しいものに対する対比として和風という概念が出来ているということなのだと思います。

そういった視点を踏まえてちょっと建築から離れまして、江戸時代の思想を例に和風について考えたいと思います。 江戸時代は孔子の教えを中心とした外来の教えである儒教(世の中を平たく治めるための、徳や仁義礼智信などが大切だといった治世の教えとでもいったらいいのでしょうか。)が流行しました。 そうなると、日本は外来の儒教一色になると思いきや、日本古来のものを大切にしよう、または取り戻そうと本居宣長が古事記や源氏物語などの日本古来の書物を研究し、日本固有のなにものか(別の言い方をすれば、日本とは何だ?ということでしょうか。)を研究し、古事記伝などを記し、国学という分野を発展させます。

一事が万事、建築に限らず、時代時代に新しいものが必要に応じて又は外圧によって日本にたびたび入り、その時代その時代に寛容に受け入れつつも、新しいもの一色にはならず、寛容出来ないものは跳ね返し、日本古来のもの、過去のものを守ろうとする、そして、その過程で新たな日本を日本人自身が再発見する、その繰り返しが日本の本質の一つといえるかもしれません。 そして、受け入れ、残ったものが後世のその時代を生きる日本人に和風と認識される、ということなのではないでしょうか。 そのように考えますと、かつて外来で新しかったモダンなものはやがては「和風」と言われるようになったように、現代において最先端であるコルビュジェの流れを汲むモダンな建築様式さえも、長い歴史の中でいずれは日本において「和風」と言われる時期が来るということが推測されます。

それでは、あらゆるものが和風になり得る、又はなり得たのかというと、先ほど「寛容出来ないものは跳ね返し」と書いたように、実際はそうではないようです。 というのは、かつての日本において、断固として受け入れなかったものも沢山あるからです。 それでは、あえて日本が受け入れなかったものは具体的には何があるのでしょう。 例えば、飛鳥時代に最新の飛鳥建築が輸入され、機能的にも優れた瓦屋根の文化が入りましたが、神社や皇室関係の建築の多くは瓦屋根をのせませんでした。 また、壁や柱、梁に大陸建築のようにぎらぎらした彩色は施さなかったそうです。万葉集を編纂する際も、記号として中国の漢字を使用しましたが、読み方としては古来からの大和読みで書かれたそうです。 正確にいうと、菊(きく)など2字か3字だけ中国の音読みで、それ以外の全てが日本古来の読み方で書かれたそうです。 また、中華文明の根幹の一つである科挙の制度も一度も取り入れませんでした。 世界中がキリストやイスラム、仏教、ヒンズー教などの一神教になったのに、日本は一神教の教えは緩やかに受け入れつつも多神教を維持しています。 受け入れるものは受け入れて、受け入れがたいものは受け入れない。 その基準は明確ではありませんが、古来から日本は日本独自の基準、価値観、感性があったのではないでしょうか。 別の言い方をしますと、何か先人たちの日本人趣味のようなものがあったのではないでしょうか。 その価値観は、四季があり海山野の幸に恵まれた、独特の気候風土が育んできたものなのか、極めて長かった縄文時代に育まれたものなのか・・・。 もしかしたら、その日本人趣味を突き詰めた先に、究極の和風と言いますか、究極の日本的なるものといえる建築が出来るのかもしれません。

日本的なるもの・・・

 

そういったことを考えていますと、日本により適した建築、日本にとって理想的といえる建築とは何だろうか、一体何を目指したらいいのだろうか、理想的な和風とは何だろう、そんな禅問答にも似たような思索を繰り返してしまうわけです。 このような問いを踏まえて、私が目指しているものとして一つ明快に言えることは、いわゆる様式としての「和風」建築を志すというよりは、もう少し根源的な「日本的なるもの」の先にある建築を目指したいと思っている、ということです。 その時代その時代の短いスパンで解釈されるいわゆる和風という名の様式というよりは、もっと永続的で古典になりうるもの。 おそらく「日本的なるもの」の先にある建築は、いわゆる「和風」建築とは随分異なるものになるのだろうと思います。

それでは、いわゆる「日本的なるもの」の手掛かりはどこにあるのだろうか。 それについて考えてみますと、温故知新という言葉通り、古きを静かに見つめ直すことが大切なのではないかと考えます。 古来の日本人趣味を紐解きますと、古来の日本人的感性といいますか、古来の一般的日本人は、いわゆる現代人がイメージするコテコテした昭和的「和風」的なる建築とは好みが異なるのではないかと推測されます。 例えば、古来からある皇室建築や神社建築は瓦ではなく檜皮葺のシンプルで優しいむくりや反りのある屋根にしていたり、茅葺きで葺かれた限りなくシンプルで形の美しい寄棟屋根の民家、万葉集に書かれた皮付きの簡素な白木の家を愛した日本人趣味を表した歌や、伊勢神宮の醸し出す清浄な雰囲気や枯山水。 日光東照宮など例外も多々ありますが、元来、日本的趣味というのは、シンプル、簡素、清浄、永遠というよりは儚さなど、これ見よがしではないものを好まれたのではないかと思います。 そういった観点から考えますと、いわゆる昭和的なコテコテした和風住宅はかつての日本人趣味から実は遠く、逆にコルビュジェの流れを汲むモダン建築の方がかつての日本人趣味に割合に近いのかもしれません。 そう考えると、いわゆる昭和的和風住宅より、モダニズムの流れを汲んだ住宅の方が、現代人に相対的に好まれるのはある意味自然なことかもしれません。 ただ、”あの”シンプルで美しい桂離宮を見たコルビュジェは「線が多すぎる」と桂離宮に対して否定的な言葉を残されたそうですが、そのコルビュジェ的なる感性といいますか、建築的文法を受け継いだ多くの建築家が生み出した建築は、シンプルが行きすぎているのではないか、日本における理想的建築とはやや異なるのではないか、という気がしています。
別の言い方をしますと、モダニズムの原理原則に向かう力が強すぎて、古来日本人が培ってきた中庸と言いますか、美しさやシンプルさだけでなく、要素の多い豊かな多様性をも包容するという、ある種の寛容さのあるバランス感覚をもっと取り戻した方が良いのではないかと感じています。

様々な様式、殊にモダンな建築があるのは良いことだと思いますが、現在日本の建築界を賑わしている最先端の建築は、コルビュジェ的なる様式が今もなお強い影響力を発揮しているように感じます。 「日本的なるもの」という、なかなかつかみどころのない、日本の本質に軸足を置いた建築が今後増えていったらいいなと思います。 そして、この国の建築文化がより豊かなものになり、新たにそういった大きな流れができることを切に願います。